『記憶の川で』 塔和子
記憶の川で記憶の川で
(2003/06)
塔和子

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記憶の川で  塔 和子詩集
塔和子
編集工房ノア

塔和子は12歳でハンセン病を患った。
病が癒えた後も隔離政策により療養所で暮らしており、現在も同所にて生活している。

そのような人生を送ってきた彼女の詩が、なぜか明るくて、強い。
怨みの声がついほとばしってしまっても、それを私たちは納得できるだろう。
しかし、彼女は過去を懐かしみ、愛ではするが、不満の声を上げはしない。

夏は日々うれて
私は思い出の夏をその夏の上に重ねる
小川のそばのいちじくを手にいっぱい
もぎとって食べた夏
海でしぶきを上げながら泳いだ夏
少女の日の健康な夏は光り
そしていまそのさまざまな
思い出の夏を見ている

これらの言葉が、他の誰でもなく塔和子氏から発せられるその重さにおののく。
彼女の人生を詳しく知っているわけでは決して無いが、「少女の日の健康な夏」をどれほど彼女は恋い慕ったことだろうか。
本誌集は『記憶の川で』とあるように、思い出が主なテーマとなっている。
そして彼女が後記に書いた一文は、胸にしこりのように残った。

人は多くの記憶をもっていて、それは思い出として浮かび上がったり、忘却の中へ沈んでいったり致しますが、忘却の中へ沈んでゆくことさえ、それが在ったということを消しようのない、証となるのです。

記憶からもこぼれていってしまったものたちの慰めのなさ、あるいは場合によっては救いだろうか。
彼女の眼差しの先に見える世界は、どのようなものだろうか。
他の詩集からも汲みとりたいと思った。
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[読書本紹介]  thema:本の紹介 - genre:小説・文学
『煙滅』 ジョルジュ・ペレック
煙滅 (フィクションの楽しみ)煙滅 (フィクションの楽しみ)
(2010/01)
ジョルジュ ペレック

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煙滅  La disparition
ジョルジュ・ペレック Georges Perec フランス
塩塚秀一郎:訳
水声社(フィクションの楽しみ)

以前からこの本の原作については耳にしており、そのたびに「これの翻訳は無理だろう」ということだった。
いま、こうして日本語に翻訳された『煙滅』を読み終え、まず言いたいのは「翻訳者塩塚氏ブラボー!」だ。
これだけの難業を、この完成度の高さで仕上げるとは驚かされた。
レーモン・クノー『文体練習』の翻訳者朝比奈氏といい、日本でのウリポ作家は良い境遇にあると思う。

さて、この『煙滅』だが、原書では「e」の文字が一箇所も使われていない。
フランス語で使用頻度の最も高い文字「e」が使用されないことによる不都合さ、不安、モヤモヤとしたものが作品の中の世界にも反映されておりメタフィクションとして一級の出来だ。
これを日本語に翻訳するために、訳者は日本語で最も使用頻度の高い「イ」を、そしてイ段である「キ、シ、チ、ニ、ヒ、ミ、リ」をすべて使わないということをする。
しかしここで問題が生じる。
原著では「エ」音はNGだが「イ」音はOK、翻訳では「イ」音はNGだが「エ」音はOK。
そこで、原著の登場人物の名前を、そこに込められた意図を解釈して、日本語用に変更する。

アッパー・ボン は Anton Voyl
ラックス・フォン は Amaury Conson

さらに日本語と異なり、フランス語には母音がア、イ、ウ、エ、オ、ユの6つある。
その6つから「エ=e」の抜けた、5という数字が作品中何度も登場し、ストーリー上も意味を持ってくる。
しかし日本語には母音が5つしか無い。
そこで塩塚氏は、原著の内容を修正し、日本語の母音数に合わせるということまでやってのける。
こんな形で原著に翻訳者が手を入れるなんてことを初めて目にした。

さて内容だが、アッパー・ボンという男は眠ることが出来ない。
何らかの不安が身中に根をはやし、それが消えない。
ある時彼はメモを残し、失踪する。
彼の友人であったラックス・フォンは、ボンを見つけ出そうと手を尽くす。

内容はミステリ仕立てになっており、ボンが残したテキスト類を頼りに彼を捜索する。
そして、なにか恐るべきことが起きていることが明らかになる。
と言いつつも、ペレック流のユーモアがそこかしかから匂い立つ。
『モビー・ディック』(作中では『モベー・デック』)、『モレルの発明』など文学作品のパロディあり、レーモン・クノーがちょこっと登場したりと、言語遊戯として楽しみながら書いている様子が伺われる。
『人生使用法』はあまりに複雑で、自己言及的なテクストだったが、『煙滅』はシステムさえ理解すれば、苦もなく読み進められる。

ペレックは次のように言う。

言語が宿す複雑さを和らげようと思ったわけではなく、そのような複雑さへ背を向けたわけでもなかった。誰でも分かるような約束ごとを課されても、望むことを思う存分書けると思ったからなのだ

その制約のなかで言葉の持つ豊穣さを彼は読者に見せてくれた。
そして「白々(はくはく)たるものが現れるか、省かれ」ているこの小説において、言葉の不在が人間の人生を、その日々の生活に対する焦燥を象徴する。
これはたしかにとんでもなく技巧的な小説だが、その根底として物語としてのとてつもない魅力を秘めた小説だった。

<作家>が望んだこと、狙ったこと、たえず心掛けたことは、これまで書かれたことがなく、なおかつ今後の文学の発展へ役立つようなものを創ることだった。当節のノベルの構造、語る術(すべ)、プロットの発想と並べ方、つまるところ文学作法だが、その変革をもたらすような創作をすることだった。

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[読書本紹介]  thema:本の紹介 - genre:小説・文学
『スーパーマーケットマニア アジア編』 森井ユカ
スーパーマーケットマニア アジア編スーパーマーケットマニア アジア編
(2005/08/03)
森井 ユカ

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スーパーマーケットマニア アジア編
森井ユカ
講談社

ヨーロッパ編に続き、アジア編を読む。
収録されているのは、タイ(バンコク)、韓国(ソウル)、台湾(台北)、中国(北京・上海)、マレーシア(クアラルンプール)のそれぞれのスーパーマーケットの商品。

個人的には、ヨーロッパのデザインのほうが好きだなと実感する。
アジアの商品は色が多すぎるし、絵や装飾がゴテっとしているのが気になってしまう。
しかし、このあたりの雰囲気をキッチュと捉えるか、安っぽいと捉えるかで随分と印象は変わりそうだ。
日本の商品も含めて、文字情報がパッケージに多いのも特長かもしれない。
実際自分が買うときには、文字情報は重要だけど、デザインとして眺めるとなるとじゃまに感じる。
あるいは、もしかしてヨーロッパの商品は競合商品が少なく、昔ながらの伝統的なものが売れ続けるから、商品をアピールしなくても売れるのだろうか、よくわからないけど。

そんなことを言いつつも、それぞれの国や文化で必要とされるもの、よく使われるものが紹介されているので、ページを繰っているとはじめて目にする物々を眺めるのは楽しい。
そして、それぞれの国ごとに個性あるスーパーマーケットの品々はそこで暮らす人々の息づかいを強く感じさせる。
商品から人々の様子を想像させる本書は、優れた外国案内にもなっていると感じた。
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[読書本紹介]  thema:本の紹介 - genre:小説・文学
『京暮し』 大村しげ
京暮し (暮しの手帖エッセイライブラリー)京暮し (暮しの手帖エッセイライブラリー)
(2010/11/19)
大村しげ

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京暮し
大村しげ
暮しの手帖社

”東の幸田文、西の大村しげ”という言葉をどこかで聞いた。
確かにふたりとも文章に端正な性格がしっとりとにじみ出て、書かれている対象がというよりも、その言葉遣いの中に心地よさを感じる。
幸田文が東京の下町らしい、はっきりきびきびとした言葉なら、大村しげははんなりとした京ことばで文章を書く。

これ(切干し大根と挽肉の甘辛煮)は、たしかに若い人に向くたき方で、あのもっさりとした母が、よっぽどハイカラなつもりでそれをたいてはったことやろう。丸まげの母と挽肉入りの千切り。その工夫がおもしろうて、わたしも負けてはいられまへん、と、しゃんと背をのばす。

こういう言葉遣いで書かれた文章には新鮮味を感じる。
本人は自分のことを古臭くてもっさり(やぼったい)としているけれど、いえいえそんなことはなく古いものを大事にする姿 ─同じお箸を何十年と使ったり、祖母の代からの糠床を使い続けたりすること─ 、四季折々の季節に合ったけじめある生活などは見習いたいものだ。

それにしても冷房も扇風機も嫌いで団扇が一番、年中着物で暮らすという彼女が、いったいどうして晩年はバリ島に移り住むことに決めたのか。
バリ島についての本も出しているようだし、そちらも気になる。

先日、台所の畳を替えて、この足つぎを置いておいたら、その下だけがいつまでも青かった。あるべきところにあるべきものがいつもあって、なんの変てつもない自分の暮らしを、ふっとかいまみたようやった。



【旧サイトから再掲】
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『無慈悲な昼食』 エベリオ・ロセーロ
無慈悲な昼食無慈悲な昼食
(2012/02/14)
エベリオ・ロセーロ

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無慈悲な昼食  Los almuerzos
エベリオ・ロセーロ Diago Rosero  コロンビア
八重樫克彦、八重樫由貴子:訳
作品社

コロンビアの小さな教会では、毎日恵まれない人々へ昼食を提供している。
月曜は娼婦の日、火曜は盲人の日、水曜は不良の日、木曜は老人の日、金曜は母娘の日。
これをアルミダ神父は慈悲の昼食と呼んでいる。
この教会に住まうのは、神父、聖具室係とその養子のサビーナ、三人のリリア、そして侍者タンクレド。
タンクレドは常に感じている、自分の内面に渦巻く苦悶の嵐を吐き出さなければ、自分は獣になってしまうと。

”慈悲の昼食”での老人たちのすさまじさ。
たとえその場で死人が出ようとも、その器をもぎとって食事を奪い取ろうとする。
飽くなき欲望とでも呼べばいいのだろうか。
その欲望は、教会の内側からも見られる。
清く正しい人と見えていたアルミダ神父、その他もろもろの登場人物がそれぞれの欲望を胸にいだいて、悶々としている。
彼らがどれだけの鬱屈を積もらせていたのか、次第次第に明らかになる。
それはあたかも、ずっと使われずにいた部屋のホコリのように彼らの心に積もっている。
薄暗い部屋でねっとりとした会話が続き、それぞれの思惑が絡み始める。
と思っいると、そこで登場するのが陽気な酔っぱらい神父マタモーロス。

ああ、南米小説の展開といったらこれだよ、と思わず膝を打ちたくなるような展開。
陽気で、どぎつくて、ブラックで、騒がしい。
でも、それらが一緒くたになって、ワルプルギスの夜のような混沌が巻き起こる。
そして迎えた朝、生命にあふれた新しい一日が始まる。

社会的な弱者が踏みにじられる世界において、悪が罰せられ正義が達せられる。
むちゃくちゃな話のようでいて、読者のカタルシスを満たすポイントをツボ良く抑えていると思う。
前半のじめじめ加減とはうって変わった後半の奔放さが楽しく読めた。
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